ネガティブ・ケイパビリィとは?という自問自答
ネガティブ・ケイパビリティとは、イギリスの詩人ジョン・キーツにより産み出された概念だ。
「特に文学において、人に偉業を成し遂げしむるもの、シェイクスピアが桁外れに有していたもの、それがネガティブ・ケイパビリティ…」
これは、キーツが1817年12月に弟に宛てた手紙の一節。
(シェイクピアが桁外れに有していたもの…大変気になる。)
日本語訳は定まっておらず「消極的能力」「否定的能力」など数多く存在する。
(消極的・否定的な能力…はて?…シェイクスピアは、何か“斜に構える力”のようなものが桁外れに強かったのだろうか?)
作家であり精神科医である帚木蓬生氏は、著書の中でネガティブ・ケイパビリティについて次のように説明している。
「論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力」
「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」
(どのようにも決められない、宙ぶらりん状態を耐え抜く力。不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる力…なるほど。少しイメージが掴めてきた)
まて、求められてきたものと違う
しかし、私たちがこれまで必要だと言われ続けてきたのは、どちらかと言えば『ポジティブ』ケイパビリティではなかろうか。
特に企業は従業員にこれを求めたがる。
前向き、粘り強く最後まで諦めない、やり抜く、周囲を巻き込む、当事者意識…。
私がある企業の人事部に所属していたころも、社員を管理職に任用するか否かを決める議論の場で、しばしば「A(名前)は、やり抜く力が足らないからまだまだマネジャーは任せられない」などと言っていたものだ。
当然自分自身も上司から「お前の当事者意識は、所詮自分の部門に対する当事者意識どまり。社会(会社の誤字ではない)全体を当事者として捉えてない」などとよく指摘された。
(今でこそ、おいおい!普通のサラリーマンなのに社会全体を当事者として捉えてなかっただけで怒られるのかよ!!とは思うが、当時は素直に自分の当事者意識が『圧倒的』ではないことを反省していた)
今、私は、マネジメントを支援・改善するサービスを提供する会社にいる。
最近、現場の中間管理職からこんな悩みを多く聞く。
「仕事についても人間関係についても、不安が先走り、実感や手応えを得たくて動けば動くほど、何に対しても疑心暗鬼になっていく。辛い」
特に、テレワーク・リモートワークと出社が混在した働き方を選択している企業に勤める人から聞くことが多い。
みな本当に優秀なビジネスマンであり、リーダーなのだが。
しかし考えてみれば当然だ。
前向きにやろうにも、環境の変化が激し過ぎてあまりに不透明で一歩先すら見えない。
粘り強く最後まで諦めないで取り組もうとしても、その取り組む対象すら生まれ難い。
やり抜くという気概があったところで、やり抜いている間に状況が変わり過ぎて全く無意味なものになる。
周囲を巻き込むと言っても、全員が出社を前提にしていた時のように役職、周囲にばらまく雰囲気、雑談等を駆使しながら人を巻き込むことは難しい。
当事者意識はあるが、この変化の激しい時代そのものや、コロナまでを背負いきれるなんてことはない。
これまで培ったきた力、培わされてきた力はもはや使い途すら無い。
むしろ“どのようにも決められない、宙ぶらりん状態を耐え抜く力『不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる力』の方が必要なわけだ。
では、どうすればよいのだ
これまで培ってきたものとまるで真逆の力をどう培い、発揮すればよいだろうか。
まず、ネガティブ・ケイパビリティが発揮される状態とは何なのか?
イギリスの精神科医ウィルフレッド・ループレヒト・ビオン(1897-1979)は、ネガティブ・ケイパビリティが発揮される状態を、精神科医としての患者への正しい向き合い方における、ある種のテーゼとして「記憶、理解、欲望がない状態」と表現した。
これだけ聞くと単に放心している状態を想像するかもしれないがそうではない。
(もちろんビオンが言っているのもそういうことではない)
まず、私たちはヒトである以上「記憶、理解、欲望がない状態」を自ら創り出すのは難しい。
ヒトの脳は、健康であればごく自然と記憶をするし、ごく自然と解らないことを解ろうともする。
さらに、解らないことに対してはごく自然と不安にもなる。
だからこそ安心するために、何かをパターン化や可視化し解りやすくしてみたり、マニュアル化し真に解る必要そのものを無くしてみたり、そもそも解らない状況を減らすためにルール化してみたり、不安を消すためにとにかく何か動いてみたりしたくなる。
今、私たちは混沌とした世界に生き、溢れる情報の中で多くの記憶をし、誰が解けるわけでもない今や未来を何とか解ろうとし、当然解けず、ごくごく自然に不安になるのである。
つまり、ネガティブ・ケイパビリティとは、この摂理に耐える力。
消極的でも無く、否定的でも無く、放心している状態でもなく、むしろ積極的に摂理に耐える力だと言えよう。
美しくまとまったようだが、これでは私たちが実行可能な解釈ではない。
ただ単に「耐える」力のように見える。
つまりこれは…
キーツはこう言っている。
「ヒトを含めた自然と対峙したとき、今は理解できない事柄でも、不可思議さや神秘に対して拙速に解決策を見出すのではなく、興味を抱いてその宙吊りの状態を耐えなさい」
ここにも答えはないがヒントはありそうだ。
「興味を抱いて」
仕事をする私たちに置き換えてみよう。
例えば、興味を持って「顧客」をじっと見つめてみる。
何かを解ろうとするのではなく、シンプルに顧客は何を思っているのかという興味を持って見つめてみる。
例えば「部下や同僚」をじっと見つめてみる。
これも同じく何かを解ろうとするのではなく、部下や同僚は何を思っているのかという興味を持って見つめる。
「解ろうとしないで、興味を持って見つめる」
これはつまり「相手になる」ということかもしれない。
実は、前述の精神科医ビオンは、患者への向き合い方についてこのネガティブ・ケイパビリティを自身および同業者に対して提唱していた。
外形や測定で解り切れるものではないものに対し、拙速に解ろうとしてしまうことに抗っていた。
今、私たちは未来が解らない状況を生きている。
過去の経験に照らし、何かを解ろうとしても解らない。
ビジネスに当てはめるなら、『解らないを認め、焦らず、まずは自分の近くにいる「相手になる」力』
これをネガティブ・ケイパビリティと呼ぶのかもしれない。
シェイクスピアは、消極でも否定的でも放心でも忍耐でも無く、むしろ積極的な「解らないを認め、焦らず、『相手になる』力」を桁外れに有していたからこそ、対象である人間というものに入り、それに成れ、だからこそハムレットでの自己疑惑、マクベスでの野心、オセロでの嫉妬を描けたのだろう。
解なき未来に挑むリーダーが、仕事や、自分の周りの大切な仲間に対し、ネガティブ・ケイパビリティを発揮しようとすることのヒントになれば、「解らないを認めず」この文章を書いたことが報われる。